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長谷本の増補 1 oct 【2003/12/05 16:43:04】
始まりのあるものにはすべて終わりがある。スミスはネオの影。ネオがスミスを受け入れた瞬間、光と影、善と悪がひとつになり、本当の光となる。ネオもスミスも消える光の世には、光のみ。光という認識はない。闇もない。元の全き光には、進化も争いもない。 無限と比べれば、損得、善悪、生死、形の有無の争いは無意味になる。 元々ないものを議論しているのは、お互いの世界の侵略合戦、鏡に映った自分とのにらめっこにすぎない。 戦いを終わらせるということは、自分の中のすべての戦いを終わらせるということ。許せない、これだけはいいたい、でもだって、それはおかしい、わかってほしいのに、わからせよう、助けてあげよう、自然を救おう、すべては、自分が困るからそうしたい保身が源。 自分が自分の言うことをすべてわからなければ、自分が魔釣りのまま滅ぶ。自分自身が自分をすべて受け入れたとき、選択はただひとつしかなくなる。カミは、何も裁いていない。魔釣りで作ったものは、滅びるのが神の法。カミの情けと花の仕組みの本当の意味がわからなければ、決まりを破っているものすべてが掟どおりに滅ぶ。 人類の歴史どころか、宇宙の歴史、神々の歴史、今、知っているすべての知識のどこにも探しているものはない。自分自身の最奥の闇の中に一厘がある。現代社会の思想、システム、形は、真釣りとは裏表である。しかし、それは、真釣りであるからこそ存在できる。裁かないということは、自分を含めた一切を裁かないということ。 本当のマコトが取れたなら、自分の見ているものは、誰にも見えない、わからない、とわかる。そして、自分以外の誰かの見ているものは、自分にはわからない、とわかる。 自分を外して考える自分が、マコトを取る際の最大の抵抗勢力である。すべては、自分のこと。自分が何をしているか、である。同意は自分に求め、他人の批判に従うかどうかは自分が決める。 長谷本も、その他の神示も、要点はただ一つ。それに基づいて行動するとどんな結果になるか。 この世にミロクを現す、というのは、この世をミロクにしようとすることではない。自分がミロクの響きで居続けることである。 魔釣りの響きの帰結が現代社会。この世が3D映画になったとき、つまり、本当の自分は、この世もあの世も滅んでも生きていることを実感できたとき、それが本当の自由であり、そのとき、本当の終戦が訪れる。生死時空を超えた自己清算。自分がミロクに入る戦いであって、世界〔他人〕をミロクにする戦いではない。 真釣り戻しは遊びではない。自分の本当の生死をかけた真剣勝負。 (※2003年12月、当時の「まるちょん倶楽部掲示板」に宮崎の漫画喫茶から送信した投稿文。原本は手元に残っていないため、[mixi]長谷章宏コミュニティーのトピック『タイムカプセル~長谷本増補(2009.3.6.3:52)』から投稿文のみ抜粋、転載。) PR |