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【2024/04/19 08:18 】 |
1.自分が思った通りの体験しかできないことを自覚する
第1回目は、『超自分』教育プログラムをスタートするにあたっての基礎となる考え方をおさえておきます。細かい部分に関しては、次回から一つずつ取り上げて扱っていきますので心配しないで結構です。まずは、反論は後回しにして、細かいことは気にせずに、全体像をつかむつもりで読み通してください。

「悩み」のない人間なんかいないよ、とか、「悩み」が全くないならそれは神様だよ、などとよく言われます。それでは、

「悩み」とは、いったい何なのでしょう?

「悩み」を作り出す本当の原因はどこにあるのでしょうか?

人生において、自分の思いに現れる質問は、結局は、

「いいのかどうか?」

という一言に収束されます。そして、質問を言葉に出せば、現象としては、自分と誰かとの問答というゲームになります。

「自分はどうしたいのか?」

この質問をした瞬間に答えはすでに出ています。

では、なぜ、行動がとまるのでしょうか。なぜ、思考のゲームに入り込むのでしょうか。ただそのまま素直に実行していけばいいのに、なぜ「悩む」のでしょうか。なぜ、ちゅうちょするのでしょうか。

いったい誰が「だめだ」と言っているのでしょうか?

このジレンマから抜け出す鍵は、自分の行動選択の基準をどこに(何に)おくかです。

すべての問いは、すでに自分の持っている答えに対する「確認」の作業でしかありません。いうなれば、自分の答えに対する評価を何かに求め、その「何か」の言う通りに選択しているのです。

では、いったい何に評価を求めているのでしょうか。

その「何か」が、自分自身と一致するならば問題はありません。言い換えれば、その「何か」が提示する基準で創る世界にい続けることを同意しているならば何も問題はありません。

自分自身の選択は、いつでも「ゴー、であり、イエス」です。

「自分はいいと思うけど、自分以外はどう思っているのか。」

評価の基準を、自分以外に求めたときに動けなくなるのです。

いわゆる、「社会常識(規範)」と自分の答えが矛盾しない間(矛盾していても、自分が許容できる間)は悩むことはありません。でも、「常識(規範)」と「自己基準」との間に、許容範囲を超えるズレが生じ、「自己基準」を選択することを決めた(けど、でも、社会規範から抜けるのは怖い、という力関係が自覚された)瞬間に、「悩み」という現象が、自分を「悩ます」問題として浮上してくるのです。

「自分は○○したい」でも「そうすると・・・」

この後(・・・)に続くのは、たとえば、

「一人になる」「仲間がいなくなる」「嫌われる」「悪く思われる」「怒られる」「仕事を失う」「生活ができなくなる」「死ぬかもしれない」「大切なものを失う」「お金がなくなる」「社会が混乱する」「立場がなくなる」「自由がなくなる」・・・・・と困る(いやだ)・・・・・

だから、「できない」

正確に言えば、

「○○したいけど・・・だからしないことを選んだ。」

でも

「自分は○○したい、○○でいいと思う」


行動の選択基準は、自分がどの集団に所属したいか、です。

どんな選択をしようとも、(一時的には、混乱や暗闇や、砂漠、孤独や死の恐怖を体験するかもしれませんが)、居場所は必ずあります。ただし、「居場所」を、今の人生の今の集団に求めれば、「ひきこもり」や「自殺」、あるいは、「拉致監禁」や「殺人」という選択に帰結することにもなります。

でも、もし、居場所がなかったら・・・本当に居場所があるのだろうか・・・と考えるならば、堂々巡りのままです。そのゲームをやめるには「すべてを捨てる」「そうなってもいい」と決めて、行動に移せばよいだけのことです。でも、もし・・・という思考のゲームから抜け出せる鍵をもっているのは自分しかいません。本当に大丈夫なのか・・・それは、やればわかります。

自分が自分の選択に責任をとるなら悩みは消えます。


実を言えば、たとえ死んだとしても同じ仕組みの中からは抜けられません。自分が自分にゴーを出さない限り、自分が自分を縛るゲームから抜けることはできないのです。そして、お互いに縛り合うゲーム、相手を縛っておいて自分が自由になったつもり(他者犠牲を条件とする欲望実現)ゲームは終わることなく続きます。これが形に表れたのが、引きこもり、であり、拉致監禁です。自己犠牲というのも、攻守を入れ替えた同じ仕組みのなかのゲームであり、「犠牲」が不可欠なシステムを続ける限り「誰もが自由になる平和な社会」は永遠にできません。

つまり、「生死時空を超えた自分」が目覚め、『超自分』の言う通りに行動する、というトレーニングを繰り返すことで『超自分』勝手というテクニックを完全にマスターしない限りは、「悩み」は永遠にあり続け、「問題」も永遠になくなることはないということです。いや、なくならないどころか、問題がどんどん増え、解決が困難になっていった末に、「100%問題」(わかりやすく言えば、本当の意味の死)という結末に行き着くことは必至です。これは、現実創造のメカニズムから導き出される結論であり、誰がどう言おうとも、動かせない事実です。今までの宗教や科学をどう突き詰めようとも絶対に出せない結論です。

『超自分』を殺していることが、すべての問題の原因です。


『超自分』の視点から見れば、たとえ「自殺」という選択をしても、悩みや問題、苦しみからは抜けられません。結局は、自分の現実としては、同じ体験が続きます。実際には、今よりもっと苦しい、困難な体験をすることになるのですが・・・。

言い訳や責任転嫁をしている時は、要は、自分がいままでの集団から抜けたくないだけのことです。言い換えれば、自分がいままでの集団にしがみついているだけだということです。

自分以外の何かのせいで自分が動けないかのように思えますが、実際は、自分が自分を止めているのです。自分の選択でありながら、自分以外に原因があるように装うことができるということです。自分が自分を騙していることに気づき、自分のしたことに自分が責任を取らない限り、自分が不自由な体験をし続けて、なおかつ、誰か(何か)と闘い続ける現実が永遠に続くことになります。


「自分はしようと思うけどできない、そのわけは、・・・」

実際は、「できない」のではなく「しない」だけです。

本当に自由になるには、この「・・・」がくせものです。

ここに入るのは、常識、社会、法律、誰か、何か、自分以外の誰かから教わったもの、誰かに教わったルール、観念、基準、考え方などなどです。

「誰かが言ったからやった」と言っても、結局は、自分がそれに同意しているのだということです。自分が同意した限りにおいては、そこから生じる体験はすべて自分の責任だということになります。「仕方なく言うとおりにした」といっても、仕方なく言うとおりにした理由があります。その理由も、また、自分の選択です。これを突き詰めていくと、すべてが自分の選んだ結果だということになります。

実は、今までも100%自由に生きていたのです。でも、自由だと思えないのは、何かのせいだと思い込んでいるからに他なりません。何かのせいだとしているその根拠がすべて幻想だったということに気づき、それを認めない限り、本当の意味での自由はなく、また、争いがなくなることは永遠にありません。

「不自由な体験をするという自由」もある
ということです。

そして、それも自分の選択であり、誰のせいでもありません。

自分も自分以外も、一つの誤魔化しもなく、文字通り、本当に自由だと実感することができる世界もあるのです。

これは、理想論でも、夢物語でもありません。

結局は、自分の立場、自分の評価、自分の持っているもの、自分のイメージを失うことを恐れて生きてきたというだけのことです。表向きは、誰かを気遣っているような生き方を演じることはできますが、実際のところは、誰もが「自分がどうなるか」ということしか考えていません。

「これをしたら自分はどうなるか?」

そして、いつも、安心、安全、楽な選択をしています。

行動するよりは悩んでいるほうが実は楽なのです。悩むという行動をすることが一番楽だからその選択をしているのです。悩んで苦しんでいるのが自分にとって一番楽な選択であるという自己矛盾・・・・。


この状態は、わかりやすく言えば、

「自分の意思で自分を何かの奴隷にすることを選んでいる」

ということです。その方が、楽だからです。

「自由になりたいけど、楽だから不自由なままでいい」

という選択をしているというわけです。

そのままでいいのなら問題はありませんが、果たして、自己矛盾をいつまで続けられるでしょうか。

どんなに隠そうとしても、誰かのために生きているはずが、自分のために生きていたということを自白する時は、必ずやって来ます。その前に、自分の意思で白状して、自覚をもって、自分の意志で矛盾を解消するほうが、恐れや苦しみを体験するとしても、結局は、自分にとって一番楽なのだということです。


「いや、そうじゃない。○○があるからだ。○○さえなくなれば・・・」と言えば、堂々巡りから永遠に抜けられません。

自分が動けないことを何かのせいにしている限りは、永遠に、本当の意味で自由になることはありません。

責任転嫁、何かのせい、を極めると、自分の存在を消すか、自分を邪魔する何かの存在を消す、という行動に行き着きます。

これが、自殺、いじめ、殺人・・・・の発生メカニズムです。

自分が自分を止めているのが、不自由、ストレスの原因ですから、何かのせいにし続けている限り、自分が自由にならないばかりか、自分も誰かも、両方とも自由を失う結果になります。

「自分が困るからやめさせる(やらせる)」

「自分が自由になるために自分以外を不自由にする」システムを維持している限り、最後の最後は自分が100%不自由な結末を迎えることになる状況は、どんな手をつかっても避けることはできません。

法律や罰則では、混乱が加速することはあっても解消することはありません。エネルギーというのは封じ込めるほど威力を増すのです。心のエネルギーも核エネルギーも同じ仕組みです。


面白いことに、ここで提案していること自体を、自分に都合が悪いからといって封殺しようとするならば、その選択そのものが、このことを証明したことになります。

「百科事典(教科書)」的な疑問は、調べれば答えは出ます。

問題となるのは「自分が決めなければならない問い」です。

なぜ、悩むのでしょうか。

自分がいいと思うことがなぜ実行できないのでしょうか。

「自分はいいと思っている」

「自分はこうしたい」

その後に続くのは

「でも・・・・」「だけど・・・」「そうは言っても・・・」
「現実は・・・」「常識は・・・」「迷惑かけるから・・・」
「立場が・・・」「仕事が・・・」・・・・・・・・

思いは行動して初めて形にすることができます。
思っていることを実体験して初めて実現したと感じます。

「たとえ死んでも自分以外のせいにしない」

このルールを100%厳守すれば、すべての問題は問題でなかったこと、自分が作り出した問題を自分以外のせいにしていたことが自分が苦しんだ原因、つまりは、すべて自分の一人芝居だったことが分かります。つまり、因縁をつけて、だだをこねて騒いでいたのは、他の誰でもなく、自分だったのだと気づきます。法律をすべて外しても、このルールが自己規範となって、自己裁判自己判決自己懲役のメカニズムが働いて、本当の意味での「法の下の平等」のもとに、本当の社会変革を進めることができます。誰かが誰かを裁くシステムは、混乱が加速し、機能不全に陥って、結局は、自分が自分を裁く結末となります。

法律を外したら社会が混乱する、というのは条件付の真理です。今のままで法律を外したら、そうなるでしょう。でも、忘れてはいけないのは、自由を制限するほど混乱するということです。

誰かが誰かの自由を制限してシステムを維持しようとしても、それは逆に、混乱の種、戦争の種を増やすことになります。自由を謳いながら規制を強化するという矛盾規範では、すべての人が幸福に、平和に生きる社会は絵に描いた餅でしかありません。アメとムチで維持する世界の結末を真剣に、自分のこととして考えるならば、そのシステムを維持することは自殺行為であることがわかります。

新しいルールを受け入れれば、言い換えれば、法律を新しいルールに置き換えて自由にすることによって、すべての問題は、混乱をへて終息に向かいます。

混乱を避けようとすることが混乱の原因です。これが、現代社会を支配する最大のパラドックスであり、このパラドックスを解消する策は『超自分』教育にしかありません。

混迷が加速する現代社会を本当の意味で真剣にたて直したいというならば、システムや制度をいじくるよりも、「悪」を根絶しようとするよりも、まずは、現代社会を作り出した根源の修復、「自分をたて直す」というプロセスが不可欠なのです。

自分がシナリオを変えれば、物語はどうにでも変わります。実際のところ、自分の現実には死は存在しません。どんなシナリオを描こうとも、自分で自分に責任を取っている限りは、自分が消滅することはありえません。これは、今まで誰もいえなかった事実です。

今の社会で問題にされる死は、『超自分』から見れば、幻想です。もちろん、俗に言う形の世界、肉体の維持がテーマならば、死はありますが、そこに執着している限りは、戦争や核兵器の恐怖から逃れることはできません。どんなに命の大切さを叫ぼうとも戦争や殺人がなくならないのは、命という言葉の意味が違うからです。

本当の意味の命は、決してなくなることはありません。

これは受け入れがたい事実かもしれません。でも、この事実を受け入れることが、本当の安全、平和、自由を導くために避けては通れないことなのです。

形の上での混乱や破壊を避けようとするほど、混乱や破壊が進み、危険や恐れが心を支配する状態が加速することになります。どんな危機管理策を講じようとも、本当の意味での危険を避けることは絶対にできません。

「自分の命を消せるのは自分しかいない」

言い換えれば、

「自分の命を救うことができるのは自分だけ」

なのです。つまり、本当の意味では、誰かが誰かを助けることはできないのです。わかりやすく言えば、地球環境保護という理念(思想)は幻想でしかありません。その真相は、

「地球を生かすのは、自分を殺した自分を生かし続けるため」

という事実に対するすり替えの論理にすぎません。生死時空を超えた『超自分』に死という現実はありません。

「死」という幻想を殺すことが本当の生を手にする唯一の方法

なのです。恐れが行動をコントロールしている限りは、本当の自由(不老不死の命)を手に入れることは永遠にできません。

「自分が自分に素直に行動し、その結果を、たとえ死んでも自分以外のせいにしない」という生き方に帰ることで、自分が作り出していた幻想の世界から目覚め、本当の意味でリアルな体験が現実になっていきます。

そうは言っても、でも・・・・

自分が崩壊していくと思うと、恐ろしくなって、今の現状にしがみつくことになります。納得できないけど、でも、今いる場所、そのほうが安全だから・・・・この選択が、ストレスを加速し、いじめ、殺人、自殺を具現化していく結果になるのです。

このジレンマから抜け出すには、当たり前だと思っていたこと、自分が全く気づいていない「自分を縛る自己基準」を自覚し、完全に捨てることが不可欠です。

でも、現実的にそれは難しい・・・

本当に、本心からそう思いますか?

本当に?


次回からは、誰も疑わない「普遍的真理」(であるかのようにみえるもの)、「当たり前だと思い込んでいた常識」などなどを見直しながら、一つ一つテーマを取り上げて、思考のトリックを外すための教材を提供していくことにします。

今回の講座は、『超自分』教育のベースですから、何度も読み直して、自問自答してみてください。


では、次回。

拍手[38回]

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【2010/12/10 07:36 】 | 『超自分』教育実践講座
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